石川さん旅にでる

アジア・アフリカ横断をめざした理系学生の旅日記。

インド旅を終えて・・・

41日間のインド旅行が終わった。

今回訪れた街は全部で9つ。

コルカタ、ガヤー、バラナシ、デリー、ダラムサラジョードプルジャイサルメール、アーメダバード、そしてムンバイ

言うまでもないがインドは広い。北インドにはダラムサラ以外にも多くの街があるし、バングラデシュ方面の東インドやインド内陸部、南インドなどは日数的に行くことが出来なかった。

それでもいろいろ感じることは多くて、とても刺激的な40日を過ごすことが出来た。

今回はそんなインドの旅を通して考えたことをまとめておく。

 

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インド旅行を終えた旅行者は2通りに分けられる、とよく言われる。

「絶対また行きたい」というタイプと、「もう二度と行きたくない」というタイプだ。

自分は前者だ。即答できる。

この旅のテーマのひとつは、人々の暮らしだ。

インドには、宗教・民族・言語といったあらゆる面で、多種多様なバックグラウンドをもつ人々が、およそ13億人存在する。彼らがその長い歴史の中で作り上げてきたもの、その多くは美しい。だが一方で現実の街に目を向けてみれば、通りはゴミや牛糞だらけ、どこの街にも物乞いがいて、塵や土埃で咳込むような空気が流れている。

インドには "極端" しかない。

たぶん自分がインドに惹かれる理由はそこにある。その "極端" 性には、何かしら琴線に触れるような、人間臭さがある。インドは人の尊さと汚さを垣間見させてくれる。気がする。

 

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忘れられない光景が二つある。

一つ目は、ガヤー駅でバラナシ行きの列車を待っていた時のこと。地べたにほとんど這いつくばりながら、虚ろな目で水飲み場の蛇口に手を伸ばす少女がいた。蛇口は遠い。少女は今にも倒れそうだ。だが誰も助けはしない。その後少女がどうなったかは知らない。

もう一つは、デリー北部のマジュヌカティラで、ダラムサラ行きのバスの出発を待っていた時のこと。車窓から何気なく外をながめると、老婆が物乞いをしていた。手を差し出し、口をなにやらモゴモゴさせて金を求めていた。だが誰も見向きすらしない。まるで老婆はそこに存在していないかのように無視されていた。この老婆は一生こうして生きてきたのだろうか。

生きることに意味があるかは知らんが、もしあるとして、この二人が生きる意味はなんなのだろうか、と考えずにはいられなかった。

 

ちなみに自分はこの旅行中、決して物乞いにお金を渡さなかった。お金をあげることが根本的な解決にはならないと思ったからだ。たしかに100ルピー(=160円)程度あげれば、その人はその日一日をなんとか食いつなぐことは出来るだろうが、毎日それを繰り返しても、そこに生活の向上はない。かと言って、現実問題物乞いしなければその人たちは生きていけないわけで、この物乞いとの付き合い方・接し方は非常に難しかった。国や社会、そしてインド特有のカースト制が良い方向に改善されなければ、最貧困層が解消されることはないと思う。

 

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もちろん負の面ばかりではない。実際、出会ったインド人の多くはとても優しい人たちばかりだった。

よくインド人は客引きがしつこいとか、騙してくるとか言われていて、たしかに事実なんだけど(笑)、旅が進んでそういうインド人と接するのに慣れてくると、逆に楽しくなってくる。

あえて客引きについていったり、話しかけてくるインド人と積極的に話してみたり、「そんなウマい話あるかい」と思いながら騙されてるフリをしてみたり、と、もちろん一定の線引きはした上で、こちらも楽しむ姿勢で接すると、旅はとても面白くなると気付いた。

そしてそうすることで、不思議とインド人のあたたかさを感じることが出来た。たぶん日本ではなかなか感じられないあたたかさがそこにはあった。

 

ちなみに客引きについては日本の小説に興味深い文がある。

1910年代に書かれた、有島武郎『或る女』の一節。

葉子と古藤が横浜の停車場に降りた場面。

客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、・・・
二人はしかたなくうるさく付まつわる車夫を追い払いながら

昔の日本も客引きはしつこかったのだ。 

 

もう一つ面白い文がある。

こちらも20世紀初頭に書かれた、夏目漱石『三四郎』の一説。
物語の序盤、三四郎が汽車で東京へ向かう場面。

三四郎は思い出したように前の停車場で買った弁当を食いだした。・・・
この時三四郎はからになった弁当の折を力いっぱいに窓からほうり出した。

なんだ日本人もポイ捨てしてたのか、と思う。

 

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インドはいろんな点で衝撃を感じる国だったけど、一番インパクトが大きかったのは ”宗教” だ。

とくにコルカタにあるカーリー寺院で見た光景は、たぶん忘れないと思う。カーリー寺院というと、とかくヤギの生贄に目が行きがちで、実際それはそれでインパクトはあるんだけど、自分が一番印象に残っているのは、カーリーが祀られた石にむかって熱狂的なまでに祈るヒンドゥー教徒たちの姿だ。

足がヤギの血で汚れようが、押されようが引っ張られようが、床に平伏し、壁に額をこすりつけ、祈り、石に向かって花を投げ入れる。喧騒や叫声、そして信仰の "熱さ" が渦巻く。なんと表現すればよいかわからない。

良くも悪くも、宗教性の "薄い" 日本では絶対に出会うことのない光景がそこにはあった。日本人の多くは諸行無常的な感覚をもっているし、生まれ変わりや自業自得などを、信じてはいなくともなんとなく気にはする。つまり日本人には、仏教神道をミックスしたような世界観が底流している。だが日常生活で信仰を感じる・実践する機会はほぼないといっていい。

インドには生活に宗教が溶け込んでいる。ヒンドゥーを筆頭に、イスラム、スィク、ジナ、仏教・・・といった宗教のいずれかに人々は属していて、多かれ少なかれ、それぞれの決まりにしたがって生活している。

それが日本人の自分としてはとても印象深かった。

 

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さてインドでもう一つ興味深かった点を挙げるとすれば、服飾文化が挙げられる。とくに女性が身にまとうサリーだ。

服飾には言うまでもなく流行りすたり、つまりトレンドがある。このトレンドは、一見すると無作為に、個人的な趣味や嗜好によって移り変わっているように見えるが、実際にはその時代や社会の思想を反映している場合のほうが多い。

しかし面白いことに、このインドのサリーはいつの時代にも見られるのだ。数百年前に描かれた細密画にはもちろん、それよりかなり前に造られた遺跡にも、サリーを着た女性が彫られている。そして現代でも、街中を歩くとサリーを普段着としてまとった女性をよく見かける。

これはなぜだろう。

日本にも着物という文化はあるが、あくまで成人式や結婚式などの通過儀礼(イニシエーション)で着るのがほとんどで、着物を普段着としている日本人はかなり少ない。

 

思えば日本は明治に急激な西洋化を遂げた。西洋の数百年を数十年で追いかけたと言っていい。おかげで日本は相当な近代化を図り、アジア最初の工業国となったのは事実だが、文化面における西洋化も避けることはできなかった。

一方インドはどうか。およそ100年にわたるイギリスの植民地支配、16世紀以降のポルトガル・フランスによる支配を含めると、数百年におよぶ列強の介入があったにも関わらず、文化的・精神的な変化はあまり見受けられない(当時の建築物は今でも残っているけど)。少なくとも日本ほどの急進的変化はない。

これは何に起因しているのか。島国と亜大陸という風土の違いか。

 

支配されつつも、自らのアイデンティティを保ち続ける力。この点は見習うべきだ。

明治の文明開化、そして何より戦後たった数年間の連合国の占領によって、日本人のアイデンティティ、ひいては内面性は大きく変容した。西洋の文化を無条件に称賛し、自文化を卑屈なまでに軽視する傾向が少なからずある。

逆に欧米は、あまりに支配欲が強い。自らのアイデンティティを強固に貫き、他を飲み込もうとする傾向がある。

他文化を吸収しつつ、自己のアイデンティティを保持するのは、もしかするとインドという風土がなせる業なのかもしれない。

 

アメリカが人種のるつぼであることはよく言われる。だが ”人” の多様性という点において、インドは生半可な国ではない。

ドラヴィダ系から始まり、北方からのアーリア人の侵入、バラモンや他宗教の勃興、イスラムの伝播、そして大英帝国の統治・・・など、大きな変動を遂げながらも、インドは何千年もの間、さまざまな民族集団が、さまざまなバックグラウンドのもと、一つになろうと努力してきた。

最近になって、とくに欧州で、シリア難民をはじめとする難民・移民問題が頻発している。そこで台頭してきているのは、移民排斥を軸とするポピュリズム的思想だ。実際フランスやギリシャ、ドイツなどでもこのような極右政党が支持を集めている。これは危険な状況だと思う。一度混ざり合ったものを引き離すのは、こと人に関しては不可能と言っていい。歴史上、ある人種や民族集団を隔離・排斥しようとして成功したためしはないのだから。

移民に関しては日本も他人事ではない。少子高齢化が進み、労働人口が減る中で、移民や外国人労働者を受け入れざるを得なくなる時が必ずやってくる。

多文化社会、多元化社会と言われる今日、インドから学ぶ点は多いのではなかろうか。

 

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最後に経済について触れておこう。

今世紀はアジアの時代と言われて久しいが、経済という面において、その時代を牽引するのは残念ながら日本ではない。中国、そしてインドだ。

中国の経済発展がいちじるしいのは言うまでもなく、2015年の名目GDPは世界第2位。インドは第7位で、中国の5分の1、第3位の日本の2分の1の経済規模だが、これからどんどん経済成長していくのは間違いない。その理由はいくつかある。

まず第一に、人口が多いという点。現在人口が世界一なのは13.6億人の中国だが、いわゆる一人っ子政策の影響で、人口の上昇率は伸び悩んでいる。一方12.5億人で第2位のインドはこれからもますます人口は増えていくだろうし、近いうちに中国を抜くだろう。人口が多いことは労働人口に直結し、人口ピラミッドは経済発展に好ましい型に近づいていく。

第二に、中間所得層が多いという点。現在インドでは経済発展とともに中間層の購買意欲が増大している。日本の高度成長期を思い返してみると、「三種の神器」が中間層に広く買われたことが、経済成長に大きく貢献していた。つまり中間層の拡大は経済にとって好材料だ。ちなみにインドではまだまだ自家用車が普及していない。街中を歩いていても、走っているのはバス・タクシー・リクシャ・トラックなどが多かった。普及していないということは、それだけ市場に余地があるというわけで、中間層の拡大と合わせて考えてみると、日本の自動車メーカーにとっても大チャンスである。実際、日本の自動車メーカーとしてインドに初めて参入したスズキを筆頭に、ホンダやトヨタも続々とインドに進出している。

第三に、インドが民主主義・資本主義国家であるという点が挙げられる。現在インドは自由経済のもと積極的に規制緩和を推し進めており、民間企業が増加している。また、外資系企業の参入も増えており、これはもちろん外貨の獲得につながっている。

第四に、インド人の英語力(英会話力)が総じて高いレベルにある点。旅していてもほとんどのインド人に英語が通じたが、それはもちろんインドがイギリスの植民地だったからだ。ちなみに現在インドでは、英語は準公用語に指定されている。現代世界の公用語は実質英語であり、それはおそらく今後変わることはない。そして「英語が話せること」が今後ますます重要になっていくことは周知の事実だ。この点、日本と中国はインドに劣る。もちろん英語を話せる日本人や中国人はいるが、多くの人は日常会話もままならない。

 

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戦後、経済成長を通して日本がアジアの第一国であった時期が少なからずあった。これから先、インドと中国という二つの大国が経済面でアジアを、そして世界を率いるとき、日本はどうするか。

そしてその時働く世代は、まさに自分なのだ。

自分はどうするか。自分はどう社会と向き合うか。自分はどう社会に働きかけるか。

インド滞在中、一番考えたのはそのようなことだった。

 

たかが1ヶ月滞在したところで、インドのことがどれだけ理解出来たかはよくわからない。まして観光として行っているのだから、得られたものは表面的なものにすぎないだろうが、以上をインド旅のまとめとする。

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